◇沿革

 荘内藩の9代藩主、酒井忠徳(1767〜1805と推定)が京都西陣より技術者を招き小録藩士の家族の内職として伝授されたのが始まりと伝えられている。
内職から始まりその後養蚕、手機技術の向上と共に次第に拡大され、徳川末期から明治の初期まで家内工業としての課程を経ている。

 明治維新の廃藩後に至り綾、紬の需要が増え明治21年頃に奥田金次郎、伊藤岩吉、岡崎義為、平田政直の4人が絹機屋として発足し年産1万円余りとなり、やや工業的な体裁を整え始めたがほとんど地場消費であった。

 同26年当時の町長、三宅弁治は絹業振興のため鶴岡絹織会を組織し、事務所を役場に置いて斯業発展を画策した。

 翌27年、日清戦争の勃発により不振になったが、その後福井地方で生産されている羽二重が欧米諸国に輸出されていることを知り、加藤瑚一が同地方を視察し羽二重製織に専念し31年には11戸となった。これが鶴岡の絹織物の嚆矢である。

 同35年稀代の偉才斎藤外市が所謂斉外式力織機を発明し、業界に新生面を拓いた。こうして県当局から企業の将来性が認められ織機の増設等の補助を受け37年には87戸と急増し織機台数も1045台となった。その後 氏が工夫した軽目繻子の創製は業界に大きく貢献した。
又41年には平田米吉の発明に係る平田式の力織機の出現及び斎藤外市の発明による特殊な整理仕上技術を考慮するなど製品は、「羽前繻子」として海外市場に於いても好評を受け明治の後半は順調な足取りであった。

◇組合の設立

 明治33年3月重要物産同業組合施工にともない県よりもその必要を勤説あり34年1月14日鶴岡羽二重同業組合を設立40年3月羽前輸出織物同業組合に改組して運営され大東亜戦争勃発前まで存続された。これが当組合の前身である。

◇検査所の設立

 機業の増設に伴い粗悪品対策として39年県令を以って県立織物検査所を設けて県営検査を施し、44年農商務省令により山形県羽二重検査所と改称移管された。これが通商産業局鶴岡織維製品検査所の前身である。(S59.10.1 通商産業検査所鶴岡支所)

◇工業高校の設立

 明治27年国は実業経営振興を目的として実業教育の普及を図るため実業徒弟学校制度を施した。これを軸にして30年に町立庄内染色学校が設立され大正9年に県立鶴岡工業学校の染色科として吸収された。これが県立鶴岡工業高等学校の前身である。

◇工業試験場

 大正7年産地振興のため試験、指導機関として工業試験場設立の気運が高まり猛運動の結果農商務省令により鶴岡工業試験場設置施行令が翌8年、町、当組合の土地、建物の寄付により10月完成した。当初は絹織物を主体としての試験研究、実地指導、見本配布、依頼加工、機械貸付を業務として携わってきた。
 これが昭和53年まで続き現在は山形県工業技術センター庄内試験場として東田川郡三川町に移転したが、業務内容も機業の衰退と共に全面的に変わり主として機械金属、分析化学、木工の三部門となり昔の面影は全く無い。

大正3年欧州戦争により一時不安に陥ったが間もなく回復し、8年には機業数38、織機2,311台、生産高80,885疋、価額10,695,526円、従業員2,281名となり明治、大正の最盛期であった。
翌9年に至り経済界の大恐慌、原料糸価の大暴落、10年に未曾有の大洪水、12年に関東大震災による横浜の引渡未了品の灰燼に遭うなど多難な時代であった。
昭和5年金解禁に伴う不況等内外の試練に耐えながら新製品(人絹織物)開発に取り組み堅実な歩みをしめした。
昭和6年満州事変、7年上海事変、12年に支那事変が始まり次第に海外市場を失い統制も強化され設備の新増設にも許可制がとられるようになった。企業整備と原糸の配給制により、必然的に低率操業を余技なくされ休機休業が続出した。
16年12月世界第2次大戦に入り織機の供出という最悪事態となり、当時19戸の企業も19年には3企業、織機819台、従業員数638名、生産高3,407疋、価額8,029円となり大部分が軍需羽二重に限られ往年の機屋の街を大きく変貌させた。
終戦後僅かながら復元機業が見え、26年鶴岡織物工業協同組合に改組し、人絹経糸整経糊付乾燥機を導入し共同作業などの復元に漕ぎつけた。
30年代に入り合繊繊維が進出し各機業とも大手メーカーと特別契約をするなど設備近代化、生産技術水準の向上を図る緒口となった。
34年産地振興を図るため「鶴岡織物振興研究会並びに展示会及び旧評会」を開催し、平成元年第31回を以って一応終了した。
36年繊維の最低賃金法が制定された。(日額200円)
39年鶴岡織物振興協議会を設立、基本計画をたて、生産計画、設備の合理化、技術水準の向上、労務対策等に対する前向きの姿勢をとった。
43年第一次構造改善事業を実施し、7億3,670万円を投じ48年度に完了した。
53年県主催の繊維海外見本市米織、ニットと共に参加し、北米市場の開拓を図った。(一応59年にて終了)
57年日本貿易振興会(ジエトロ)及び日本絹人繊織物工業会主催により日本絹織物ニューヨーク展を開催し、平成2年度は20点を出品しニューヨーク市場の開拓努めたが、3年度以降は諸般の事情より出品を見合わせている。